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[MTWD Select001] 伊福部昭のヴァイオリンソナタと胡哦

MTWD, クラシック, 日本

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※キャッチ画像は伊福部昭が育った北海道音更町の白樺並木。

別サイトで始めた「不滅の生命力をもつと感じる楽曲や演奏」を紹介するMusic That Won’t Die(MTWD)シリーズを本サイトに引っ越すことに決めました。記念すべき第一弾は伊福部昭師匠です。

伊福部昭

伊福部昭と言えばゴジラ♪ゴジラ♪ゴジラ♪のあのテーマを作った人です。でも他の作品を聞かないのはもったいないと思います。

伊福部さんの人となりについては多くの文献があり、インターネット上にも多くのサイトで彼を扱っています。特筆すべきはその家柄。

伊福部家は大己貴命(=大国主)を始祖とする因幡の古代豪族・伊福部氏の末裔で、武内宿禰を祭る宇部神社の神官を代々務めてきた。明治維新以降、祖父の代で神官の職を離れ、昭の父・利三は北海道へと移り住んだ。伊福部家は昭の代で67代続く家系である。

古代豪族の血が北海道の風土とスパークして類まれな音楽を生んだのです。老境に達した伊福部さんは、このようなことを書き遺しています(「小異を受容する寛大さ」1990)。

私は北海道中部の音更という寒村に住んでいたが、近隣には未だアイヌの古老達がいて、彼等のアニミズムにも触れることが出来た。例えば、使い古した茶碗などが壊れると、その一個を鄭重に土に埋め「古い道具を神に還す儀式(オンネチョイペプカムイアイワクテ)」が行われるのであった。真に心打たれる行事である。一見、仏教の供養に似ているが、考え方は全く異る。又、一寸、不合理に見えるかも知れないが、私は、平成元年四月、長い間温ためていた「交響頌偈釈迦」と云う作品を脱稿上演した。詞はパーリ語で、南伝大蔵経六十五巻大王統史十七章を用いた。仏教の世界観にも心惹かれるからである。

このように、私は種々な宗教的教義に関心を示すが、決して習合神道なのではない。心の中では矛盾なく調和を保っている。

又、時に神道は哲学的探究に欠けると云われるが、老子の「無徳司徹」の語に見られるように徹底した峻別を避け、小異を受容する寛大さは寧ろ有徳と云う可きで、より高い宗教的境地であると信じている。

この、おおらかな神道は、古来「ことあげせぬ国」とされる我々にとって真に相応しい神観であると思う。

伊福部さんの音楽には尽きせぬ懐深さがあり、それはこのような大らかな宗教性から来るのかもしれません。

ヴァイオリンソナタ(1985)

今回は伊福部さんの中でも地味目の静かな曲を選びました。コンパクトな曲想の中にこの音楽家のエキスが濃縮されている感じがするからです。

この曲を聴いていると、ふとDNAというものの実在を感じます。西洋人にはこの曲はぜったい書けない。情感が日本そのもの、なんですね。

胡哦(Chant de la Sérinde、1997)

琴独奏用の二十五絃箏曲。胡哦(こが)は「胡人のうた」を意味します。胡人とはシルクロード全盛期に敦煌からカシュガルの辺りに住んでいた西アジア系民族のことです。

胡哦の原曲は映画「モスラ」の挿入歌「聖なる泉」です。

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